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私は、親鸞会元講師部の者です。 この度、縁あって「清森問答(http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/)」に、私の思いを投稿として掲載して頂きました。 大変多くの反響を頂き驚いております。 今回いままでの投稿をまとめて欲しいという希望がありましたので、当サイトに再掲載させて頂きました。 申し訳ありませんが、コメントを頂きましても読む時間がありませんので、コメント不可に設定しております。 #
by watashinobyakudo
| 2008-05-25 21:40
清森問答、上田さんコーナー、T社と田中氏との法論を毎日、見ています。
大沼さんの受け売りで、「若不生者、不取正覚」で信楽の身になれると50年、教えてこられたので、今更、大沼さんが、根拠です、とは言えない。本願、間違えていたでは、済まない。切腹ものだから、辻斬り強盗とありましたが、これは高森先生の本音に違いないと思います。 みっともない位、話をはぐらかそうと、必死です。清森さんからも根拠はありません、と追撃を食らい、今頃、除名にしなければ良かった、と後悔されていると思います。 高森先生は都合が悪くなると 1.嘘をつく ○支部長制度は講師部の要請です。 ○局長の不倫疑惑は、でっち上げだ。写真もビデオも捏造だ。 ○財施をこれだけせよ、と言ったことがない。 建立財施も他も「本会から本部長に目標財施が来る」 ○華光会時代の事、高森先生の過去をカットする。 ○会報、光に向かって、お歌、盗作なのに自作のように思わせる。 2.黙って説明をしない、無視する ○蓮如上人500回忌の延長理由を言わない ○財施の収支報告をしない 3.コロコロ変更する ○光戦以上の法施はない。 現在はアニメのことを何も言われない。 ○光戦によって、本願寺は変わる。 現在は、「なぜ生きる」で世界の小杉になる。しかし会員は激減。 ○ビデオ講師部制度は変わり通し。講師部が行けない会員さんに法施をする。法領も固定。 現在は、皆さんが希望されたから、やめるのも自由です。 ○支部長制度になれば、布教は自由にする。 現在は10分間説法とビデオ御法話だけ ○布教局長は上司ではなく、布教の相談役のようなもの。 現在は独裁者。権力の集中化、10講制度で縛り上げ ○支部長は布教に専念して、パソコンなどに時間を使うな。活動報告は自由。 現在は、参詣、財施、会費、通達、活動報告のために長時間を費やす。 しかし、これも親鸞会を発展させるため、守るため、と言われれば、熱心な会員さんは、皆、目をつぶり、自分に納得させて耐えて来たのです。 でも今回の問題は全く質が違います。 「親鸞聖人のみ教え、阿弥陀仏の本願だけを伝える。親鸞会が、高森先生が、阿弥陀仏の本願を間違えて伝えていた。その元は、大沼法龍氏のパクリが原因であった」 = 高森先生は正しい信心、教学があるのだろうか? これは親鸞会を根底から、ひっくり返す、これ以上ない大問題です。 まさに50周年目に起こされた阿弥陀仏のドラマと私は思っています。 このまま、じっと阿弥陀仏が見ておられる筈がない。今に何かが起きると、ずっと思っていました。 中でも教学を信じている人ほど、ショックです。講師部、親友部、特専部、学友部、幹部の動揺は大変なことだろうと思います。高森先生の血圧は上がりっぱなしでしょう。 自説に対する疑い、信用、不安が広まらないか、皆、どう思っているか、知りたい一杯でしょう。 T社説を徹底講義して、田中説の間違いを何とか徹底させたい、何とかしなくては、の思いで、頭が一杯だと思います。 講師部も 「阿弥陀仏の本願は、すべての人を絶対の幸福に助ける、というお約束です」 「先生、根拠は何処ですか」 「ハイ、本願文に若不生者、不取正覚とあります」 「親鸞聖人はどこに、そのように教えておられるのでしょうか」 「・・・それは・・・」自信を持って説けなくなるから、大問題です。 ただ、親鸞聖人に根拠がなかろうと、高森先生に間違いはない、私はそれでいい、という人が大勢だと思います。 しかし、千丈の堤も蟻の一穴より崩れると言われますので、おかしいと思う講師部、会員さんが現れたら、予想のつかぬ事態になるとも思います。 清森さんの発言も大きな力になりますから、よくよく注意して伝えてください。 高森先生は ○アニメの批判者の会員を除名 ○大島一声への批判文、パンフ配布 ○瓜生氏への局長、総長の批判声明の発表 ○法話ビデオダビング者へは除名処分 異常な程、自分を批判する者に対して執念を持たれる性格の方です。 清森問答も当然、チェックして、教学部にも攻撃させる用意位はさせているでしょう。 ○この説明をせよ、親鸞会批判は許さぬ、法的に対処する。 ○責任をどう取る、謝罪せよ、布教をやめよ・・・ こんなことは平気でやる集まりが親鸞会だから、言質を取られぬ様に、注意に注意して、発表した方が良いと思います。そうしないと、その対処に精神的、時間的に大変な労力を費やすことになりかねます。 親鸞会会員は、信心決定しか、頭にありません。念仏も往生成仏も、あとについてくることだから、兎に角、獲信、獲信、宿善、宿善、活動、活動、人集め、金集め、会合、連絡・・・の心境です。 私もこれを、ずっと続けてきました。 なぜ大沼さんが若不生者を信楽の根拠にしたのだろうか、と改めて読んでみますと、 『若不生者の誓いゆえ・・・』 『生まれるべからざるものを生まれ・・・』 『信受本願、前念命終・・・』 根拠も高森先生と同じ。ここをそのまま、鵜呑みにした事がハッキリします。 大沼さんの信心はどうであるか、ということは私には言えませんが、救われた喜びは、名号六字丸貰い、仏凡一体としか、言い様がありませんが、この弥陀の大願力、お慈悲は念力だ・・・、若不生者の念力だ・・・と、これまで誰も言わなかった、あれほど御聖教をやかましく言う大沼さんが、親鸞聖人の根拠にもないことを、はっと思いついて、言ったのでは、と想像しています。 それを高森先生が盗作されたために、その説明がつかず、まさか大沼説などと言える筈もなく、大問題になったのでは、と思われます。 どんな人でも(すべての人を) 絶対の幸福に 必ず助ける これが若不生者の誓いです。(親鸞会) この世を絶対の幸福になって暮らしたい、人間に生まれて良かった、と生命の歓喜で生きたい。これをよくよく考えてみると「よく生きたい」「どう生きる・生き甲斐」と、どれほど違うのか、と思えて来ました。 親鸞会会員は、信心決定、宿善しか頭にありませんが、名号六字の功徳、念仏、往生する、成仏することについて、どれほど関心があるでしょうか。知っているでしょうか。 仏教の目的は、この世を安心して、生きることでなく、六道の迷いを離れて成仏することですが、どれほど意識して活動しているでしょうか。 自分はどのように話をしてきただろうか、と最近よく反省せずにおれません。 恥ずかしいことに参詣、財施、顕正、教学受験、目標達成、何より今日の生活が出来るかどうか、内心、何より関心があったのは、こっちの方でなかったか。 往生成仏など、1%も頭にあっただろうか。 さぞかし立派な心で求道、活動しておられるだろう、私達の支部長は、と会員に思われる様に言動しなければならない。 講師部同志でも、信心の沙汰もなく、ミスをしないよう、チクラれないよう、「心口各異、言念無実」虚仮だったなあ、恥ずかしい求道だったなあ、皆、如来様は見ておられたのだ、早く自分の値打ちを知れよ、と見ておられた。ああ、このままだったとは、申し訳がない、勿体無い、南無阿弥陀仏。 ●T社の質問に、信楽に どうして生まれる - 聞其名号 何の力で生まれる - 名号 いつ生まれる - 乃至一念、即得往生 若不生者の本願成就文の根拠は - 名号がそれである ●田中氏の答えは正しいと思います。 『本願名号正定業、至心信楽願為因』 『無碍光如来の名号とかの光明智相とは、無明長夜の闇を破し衆生の志願を満てたまう』 『光明名号顕因縁、開入本願大智海』 若不生者の念力で信楽になると、なぜ大沼さんは言ったのか。大沼さんは本願寺の十劫安心、無帰命安心、「念仏称えていれば死んだら極楽、死んだら仏」仏法の有り難み、のみを説いて、機を説かぬ、と多くの著書に書いている、批判している。 高森先生の本願寺批判も同じだった。 その反動が、この世で絶対の幸福になる(信楽) 信前の念仏など何にもならぬ、助からぬ ここにこそ、阿弥陀仏のお力、念力がかかっているのだ、 となったのでは、と考えています。だから左から、右への反動だと思います。 -------------------------------------------------------- 救われて分かることは、阿弥陀仏の仏心を知らされることも難の難ですが、しかし悪業煩悩しかない、この私が往生成仏するということは、どえらい事だなあと、日に日に思えてくるのです。 観経のイダイケ夫人の救いは過去に修行していた人だ、凡夫が往生成仏の身に、この世でなれる筈がないと、天台達がいったのは、彼等にはそれほど成仏するということは、どんな大変なことか、尊いことかが分かるからです。 救われれば、易往なのですが、これを信じられることは、これまた難だから、阿弥陀仏は命がけで、どうか信じてくれ、必ず仏にしてみせると誓われたのだと思わざるを得ないのです。決して決して、当たり前と思えることではないのです。 悪業が知らされるほど、この悪業を断ち切って仏にさせるために、どれほどの、いかほどのご苦労をなされたのか、ご修行下さったのか、申し訳ないことだと、ただ念仏申すばかりなのです。 -------------------------------------------------------- ・衆生性得の機 ・如来回向の機 ・本願疑惑の機 この三つ、ハッキリと説かねば、聞かねば、知らねば、弥陀に救われません。 この如来回向の機が分からねば、本当の本願疑惑の機もわかりません。 善知識でなければ、分からない、説けないところです。 清森問答に、最近は念仏の事について、また発言者の意見を通して、親鸞会の問題点を明らかにしてあるので、考えてやっているな、と思って見ています。 しかし、この三つの心を正しく説かねば、導くことは出来ません。 救われるとは、この三つ共、ハッキリと知らされる、ということでした。 ★聞其名号の 『聞というは衆生、仏願の 生起【衆生性得の機=機の深信】 本末【如来回向の機=法の深信】を聞きて 疑心【本願疑惑の機】あることなし』 いろんなことを教えたいでしょうが、救われるために絶対、知らねばならぬ、この三つの心、明らかに皆さんに知って頂きたい、と心から念じています。 #
by watashinobyakudo
| 2008-05-25 21:33
○ 3月10日の質疑応答74の私の発言を多くの方が読まれたことを知り有難く思います。同時にこの元親鸞会講師部とは誰か、何の目的でこんな発言をするのか、真意が分からないと思われた方も多いと思います。 氏名を明かさない理由は後日お知らせ致しますので、今日は真意をお伝え致します。 私も清森発言の有ることを知り関心を持って見て来ました。 除名されても何とか親鸞会に正しい親鸞聖人のみ教えを伝える団体になってもらいたいの気持は尊いと感じました。 ・ 2月25日 質疑応答62に親鸞会の未来を非常に憂慮し何とか立ち直って頂きたい、として清森さんは以下の案を提示しました。 (1)学生に対する新勧活動を中止する。 (2)目標制度の廃止 (3)本来の支部長制度に戻す。 (4)富山に集めるのではなく、地方に分散させる。 私はこれを見て、ああこれでは駄目だ、発言しなければならないと思いました。これは枝葉だ、親鸞会の真の問題の本質ではないと感じたからです。 この思いを清森さんに伝えたところ、了解されアップされることになりました。本当に不思議なご縁であり、これ皆 阿弥陀仏のお手回しと思わずにおれません。 ○ 私は「顕正」を読み、高森先生の説法を聴聞して高森先生だけが現在唯お一人の善知識(体験・教学の徹底した)であると確信して数十年求めてきました。 講師部こそが信心決定の最短の道と思い決心して飛び込みました。 本願寺は真実説いていないくせに、高森先生を批判している、許せないと20数年前、本願寺座り込み行動にも会員を誘い参加しました。 本願寺の沈黙でやはり高森先生はすごい、善知識だと改めて尊敬したものです。 ○ 「アニメ」で本願寺は変わる、大津波に飲まれると高森先生は言われたので、必死で会員さんと1軒1軒アニメ頒布に10年近く回りました。 重いアニメ鞄を持ち続けていた為、腕を痛め整骨院にも通いました。 100万頒布しても、まだまだ琵琶湖に小便したようなものだと豪語され、そうか頑張らねばと思ったものですが、今はアニメ頒布に全く力が入っていません。 「アニメ以上の布教はない」と叫ばれたあの頃の熱意はどこへ行ったのでしょうか。 今度は本願寺が親鸞聖人のアニメを出すらしく諸行無常で何が起きるか分からないものです。 しかも昨年からアニメの内容の問題点を指摘する人が現れ、今大変なことになっています。思わず「辻斬り強盗にあったようなもの」と反論されているが実感がこもっている。 ○ 「なぜ生きる」こそ全人類の光となる御著書と言われベストセラーにする為だからと指示があり、幹部の方と指定の書店でまとめて買っては本会へ提出してきました。 ウソのベストセラー作りに協力して、こんなことでいいのか、素晴らしい本なら口コミでも広がるはず。会員さんも出版された時だけで、今は余り読まれていない。私自身、12冊も持っている。 今度の「歎異鈔をひらく」もそうならなければいいがと思います。 やはり財施もまた募られ大変だと耳に入っています。 ○ 正本堂建立について高森布教局長から「正本堂で1万人にご説法されるのが、高森先生の長年の夢だ。だから今の会員数では足りない。もっと顕正して御苦労、御心にお応えしよう」と幹部を前に発表があった。 おかしいと思った。 いつの間にやら、顕正の目的がずれてきている。気付いた方もあるはずです。 親鸞会は後生の一大事の解決を目的としている筈が、人集めが目的になっていないだろうか。 今年は親鸞会50周年で顕正目標が高いと聞いています。 M支部長が夜の1時頃会員7名で退会希望者の家に来て3時頃まで居て、退会するならお仏壇の正御本尊も返却せよと迫った話もここの狂いから生じていると思います。 退会したい理由を良く聞き、仏法の聞き間違いなら順々と話するのが支部長ではないか。日頃の自分の法施、育成不足が原因となぜ反省せずに夜中に乗り込むのか。付いて行った会員は自分も退会を言い出せばこんな目に合うのかと恐怖を感じる、是も狙いだったのか、誰だこんな非常識な支部長は。名前を知ってやはりなと思いました。 高森先生の夢を実現させる為に活動しているのだろうか、と疑問が膨れあがる。明らかにおかしい。 支部長の口からは参詣、財施も何かと言えば「高森先生の御心、ご苦労、ご恩」ではないだろうか。 なぜ「阿弥陀仏の願い、ご苦労、ご恩」が切実と語られないのか。 親鸞聖人は正信偈に「帰命無量寿如来 南無不可思議光」であり、歎異鈔は「弥陀の誓願不思議にたすけまいらせて」で始まるではないか。 想いの強い方が先に出るからではないだろうか。 ○ 顕正目標達成にに苦心し、何より本会から来る財施目標の達成に眠れぬ程悩みました。会員さんの現状を知ると本当に辛かったです。 「財施を勧め切れないのは、仏法が分かってないからだ」と各地の予約達成表を前にいて布教局長に叱られ、そうなんだと自分に言い聞かせ集めるしかありませんでした。 ところがそんな苦労したのに収支報告が無い。 「仏法以外に使われてはいません」と済ませてしまう感覚に疑問が出て仕方ありませんでした。しかし立場上そんなことは言えません。 「尊いご縁を結ばれましたね」と不審が出ぬように気をつかいました。 これが最後の財施だったはずの正本堂の後も次々募られてゆく。 財施が悪いと言っているのではありません。 その財施や金額が本当に必要か、財施理由が正しく理解され、される本人の自由意志であり、収支報告が正しく報告されるべきです。 そんな常識的なことが出来ぬぬ理由こそ親鸞会の問題ではないでしょうか。 不審が起きて当然です。 ○ 高森先生は阿弥陀仏に救い摂られるには、18願の世界に入るには三願転入、19願の諸善万行、20願の念仏の道を通るのですと何十回と説いておられます。 しかし、19願 諸善万行、善の勧めの通り実行されているでしょうか。 高森先生が数年前の講師部会合で、「講師部はまだ19願の入り口にも入っていない」と注意されたと正直な講師部員より聞きました。 また「信心決定していなくても、聞く人の為ならウソで信心決定していると言っていい」と言われたが私はとても言えない、とこれまた正直に教えてもらいました。 私が元講師部であり気を許して言われたのでしょうが、その講師は「私は何十年聞いているけどまだまだです」と、本心隠さず自身の信心を告白され尊い、真面目な方だと頭が下がりました。 最近、自称信心決定の支部長が多いのはその為ではないでしょうか。 本当ならこんな尊いことはありません。心から喜ばずにおれません。 ここを読んでおられる会員さんの支部長はどうでしょうか。 私が退部する前の講師部員で信心決定している方はありませんでした。 清森さんも同じ意見です。 昨年、上田祥広さんが信心決定していると言ったので高森布教局長から激しく異安心だと責められ、結局除名になったことを知りました。 今、信心決定していると言っている支部長は除名にならないのでしょうか。布教局長さえ未だ信心決定したと言われないことを、そんな先に言って大丈夫かと心配になります。不思議です。 ○ 教えは確かに三願転入ですが、実行となるとどうか。 19願は救われたいと心から願い、諸善万行を実践する、廃悪修善をとことんやれば臨終に阿弥陀仏が菩薩を引き連れて迎えに行きましょう、化土へ往生させてあげましょうという願いです。 真面目な講師部員も多いですが、ここに書けないことも、数十年の間には数多く見てきました。 しかし講師部個人のことを書くつもりはありません。 それより自分はどうか、19願の通り実行出来ているのか。 全くお粗末千万、阿弥陀仏からご覧になれば虚仮不実、雑毒の鼻持ちならぬ偽善者ではないか。 善どころか、三世の諸仏に見捨てられて当然の、十悪、五逆、謗法、闡提以外何も無い、無仏、無法ではないか。 説法すれば評価が気になり、参詣者の増減に気持ちが動き、御法礼が気になり、今月やり繰り出来るか計算しだす。 顕正すればその話し方を内心誇り、参詣目標を達成すれば出来てない講師を心で見下し、財施に頑張れば評価を期待し、会員さんの前では如何にも本会の指示に従い不足など無いように振る舞う。聴聞しない会員は自分の法施不足なのに仏縁の薄い人と嘆き、活動する会員は大事にし心を掛け、動かぬ会員を疎ましく思う。 人が見ていないとお勤めしていても早く済まそうと早口になり、お仏花、お供物代が惜しい。後から食べようと自分の好きな物しかお供えしていない。 お礼状が来るとその人の名前はしっかり覚え、そうでない人はなかなか覚えられない。それでいて自分がお礼状書くのが遅い。 自分のミスを同僚に見られないか、上司に報告されないか、今度の講師部会合で前に出されて指摘されないだろうか。 あー何をしているのだ俺は、人の評価ばかり気にして、取り繕って、感謝も無ければ、懴悔も無い。 「なぜ生きる」「人生の目的」は口先だけでないか。仏法を「どう生きる」の手段にしているではないか。一番心配しているのは後生でなく、「どう生きる」だけでないか。 何が講師部だ、三界の大導師だ、人は騙せても阿弥陀仏は見聞知だ、騙せると思っているのか。講師部退部の心へと傾いていった。 ○ 高森先生は雑行雑修自力の心が廃らねば、18願の世界へは出れません。 雑行雑修自力の心を知るには30-40年かかるだろうといわれた。 私は大ショックを受けた。 だから何十年、何千回聴聞を続けていても、後生の解決が全くつかないのか。宿善が薄いからだと自他共に言ってきたのだから、そうに違いない。先生は「私は真実を説き切っている。聞ききらないのは皆さんの責任です」と何度も言われた。自分が問題なのだ、高森先生、親鸞会の指示に間違いがあるはずがない。あーなんという恐ろしいことを思うのか、法謗罪だと退部してからも反省の日々が続きました。。 この後、わたしの求道を根本から考えさせられる出来事が起きて来たのです。 #
by watashinobyakudo
| 2008-05-25 21:30
○講師部の現状に失望し、自身の求道姿勢(講師部聖則4-常に求道姿勢を正し、会員の模範となります)にも自信を無くした私は、退部してからも、高森先生の説かれることだけは真実だ、こんな私でも救われる道は聞くしかないと思い、働きながら本部会館の高森先生の御法話、教学講義、アニメ解説に続けて参詣しました。
そんなある日、私がよく知り、講師部の時お世話にもなった方(男性)が癌でもう聴聞に来られないことを知りました。 80歳過ぎで、30年近く求められ、聴聞も県で一番位回数が多く、アメリカ、ブラジルだろうと高森先生の御法話には一座も欠かされたことが無く、支部の御法話、会合も全日程参加でアニメ頒布にも、実に真面目に回われました。 財施額も常に県でも上位、高森先生との高額財施者の親睦会、会食会は常連でした。副支部長として生活の全てを親鸞会の活動にかけられ、本会からも、貴方は会員の模範だと、何度も表彰状を受けた方でした。 ・2月に見舞いに自宅へ行くとベットに横になり、変わられた姿に驚きました。 そして開口一番、「こんなになって聴聞に行けんようになったー、どうしょうー。宿善積めんようになったー。困ったーた弱ったー」でした。 自分の病に気付いておられるなと直感しました。 もう世間並みの見舞いの言葉なんか言っておれない。 「Tさん、本部で座っているだけが聴聞ではありません、なにを聞いたかです。何を聞いて来られましたか。こうなったら、これまで聞かせて頂いたことを思い出して下さい。私も聞かせて頂いた事を話に来ますから、このベットの上が聴聞会場ですよ」 私はこの時、このTさんに数十年聞かせて頂いたことをお伝えしよう、亡くなった父と同じ年齢のTさんに何とか救われてもらいたいと思いました。 それから本棚に積み上げてあった高森先生の「会報」「こんなことが知りたい」「法戦」など仕事以外の時間は読み続け、ここを話そうと思うところをコピーし準備しては月2回程行きました。 何を話しても、Tさんも30年近く聴聞をしてきた方ですから私の話することは全部分かるのです。話するのも、Tさん体調からは1時間が限度でした。 しかし「無常観をとりつめたら後生の一大事の驚きがたつだろうと、今死んだらどーするー、と思うけど、まだ死なん、まだまだとしか思わん」と頭を叩かれ、 「罪悪感をとりつめようと、自分の悪をいろいろ思うが、もー悪い奴やと思えん、こいつが」と腹を叩かれた。 「こんな者どうすりゃいいんですかー、教えて下さいー、助けて下さいー」と遂に男泣きに泣かれ、私の腕にすがりつかれた。 私はこの時、自分の慢心に気付いた。よし俺が導いてみせようとは、何たる傲慢。Tさんは目前の後生に命がけに取り組んでいるのに、覚えた教学、読んだ要で何とかしようとは、自分こそ後生の一大事が全く分かっていないではないか。 まだ教える立場で考えて、自分の問題にしていないではないか。お前はまだ講師様か、何という馬鹿者だ、俺は。 「阿弥陀様が分からーん、どう信じたらいいのか、どう思ったらいいのか。私みたいな者は助からんのか。あー私は宿善が浅いから助からんのや。 高森先生、申し訳ありません。もっと宿善求めて頑張ればよかった、済みませんー」とまた号泣された。 かって数十年前、谷本貞三さんも同じ癌で入院し苦しまれた時、浅倉講師が見舞いに行き、高森先生は何度も葉書を出されて阿弥陀仏の御心を伝えられ臨終間際に救い摂られた話は有名でビデオにもなっている。 その葉書の文句も見せて話するが、読んでる肝心の私がその意味が分からない。 その時の私は三願転入しか頭に無く、宿善求めて、19願、20願と信仰進んだ宿善厚い谷本さんだからこそ獲信されたのだろう。宿善浅く、読んでも意味が分からんと泣いておられるTさんには無理な言葉だったのかとしか思えず、言葉が無くなってしまった。 私はとっさに両手を握って「念仏称えましょう」と言った。仏法を聞き始めて数十年、私は初めて人に念仏を勧めたのだ。 Tさんは驚いたように「念仏称えて助かるですか、いいんですか」と聞いてきた。 親鸞会で信前の念仏は助からん、本願寺は念仏称えて死んだら極楽、死んだら仏と教えを捻じ曲げていると、30数年聞かされてきたTさんは始め躊躇されたが、私はかまわず念仏を称え出した。 3分ーー5分ーー念仏と共に何の涙か分からないが止まらない。一緒に泣きながら念仏を称えた。 Tさんの姿は私の姿だ、決してTさんだけの姿ではない、親鸞会会員さんも皆平生業成の身に成らなければこうなるのだと深く心に刻んだ。 病気の進行は早く、Tさんは自宅から病院へと移られ私も病院へ通ったが、行くのが辛かった。行く度落ちてゆく体力、10分間聞くのも脊髄へ移転した病魔に苦しみ話が中断する。 こんな身になって諸善なんか勧めておれない。しかし念仏勧めるが心は依然として暗い。 色々悩んで、仏願の生起本末に絞って話しすることにした。A3用紙にまとめ上げて話し始める。 ・仏願ーー阿弥陀仏の本願 どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に ・生起ーー悪業煩悩で罪を造り、因果の道理で後生は一大事、地獄行き間違いない自分である。ここが目当てです。三世の諸仏が呆れて見捨てられた私です。 ・本末ーーそれを救うと誓われたのが阿弥陀仏の本願であり、南無阿弥陀仏にはその力がある。この世で絶対の幸福の身になれる。 しかしいくら話しても、南無阿弥陀仏が分からない。どこが功徳の大宝海なのか、どうしたら、いただけるか分からない。 阿弥陀仏の本願はお伽話と思わないけれど、阿弥陀仏が身近に感じられない。お勤めが嫌だ、早く終わりたい根性しかない。 十悪、五逆、謗法、闡提は確かにそうだ、否定できない私のことに違いない。 では、こんな私は本当に救われるのか、現在、この世で地獄行きが、極楽行きになれるのか、そんな力がどうしてこの六字にあるというのか。信じられない、分からない。 阿弥陀仏の本願に対する疑いが次々と出てくる。合点と疑いの二つの心で、Tさんどころか自分自身が問題なのだ。 ・何とか分かりたい、ハッキリしたいと親鸞聖人のアニメ1部を見た。 特に終わり部分の親鸞聖人が法然上人に会われ、聴聞の末、抑え切れない胸の内を告白なされるところを毎日3回も4回も、1週間程見続けた。 聖人「今はもう、聞く心もございません。ただ煩悩と疑い一杯で、阿弥陀仏の御声がきけません」 上人「うぬぼれるな、そなたの心は、阿弥陀仏の御声が聞ける殊勝な心か」 聖人「親鸞の心はただ暗い、それだけでございます。 暗さも分からぬ、真っ暗がりでございます。お助け下さい上人さま」 上人「親鸞よ、そなたには、まことを聞く耳はないのだ。それがそなたのまことの姿なのじゃ。一切の自力を捨てよ。全てのはからいを捨てよ。捨てようとする心も捨てよ」 この後、聖人が獲信さなれている。 自力の心、救われたい、助かりたい、安心したい、ハッキリしたいの心がどうして捨てられようか。 この心あるから皆、聴聞、財施、顕正、その他に頑張っている。捨てよ捨てよと言われるが、ではどう捨てていいのか。 トリモチみたいに決して離れない。この心ひとつで数十年求めて来たのに。叩いても、押してもびくともしない鉄扉にぶち当ってしまった。 見るたび涙が出てしまい、1週間もすると辛くて見るのをやめてしまった。 ・また同時に、親鸞会の今の求道で本当に救われるのか、と疑問が頭を持ち上げてきた。顕正の目的がずれている、会計報告しない以上、財施も何に使われているか怪しい。 三願転入で救われる、なら19願の賢善精進の実行も外見ばかりで、本心叩けば出来ていないではないか。心口身共やっていますと自信もって言える人はあるのか。 私は出来なかった。 皆さんが尊敬されている講師部も19願の入り口にも入っていないと、高森先生がそう言われたそうだが間違いないだろう。誰か文句言えるのだろうか。 (最近信心決定していますという講師が何人もあると聞くけれど、この極難信の信前信後、どうなったのか詳しく説けるのだろうか) ・19願の諸善の次は念仏ですが、高森先生は「信仰が進むと念仏称えずにおれなくなる」と言われたことがありました。聞かれた方もあると思います。 私の支部長はよく念仏称える講師だと言われている支部長はあるでしょうか。私が所属していた県の講師にそんな方は一人もいませんでした。 高森布教局長も、念仏称えているのも数十年聞いたことも、見たこともありません。家で一人静かに称えておられるのでしょうか。私の認識不足なら失礼致しました。 20願通らなければ18願の願海に転入は出来ない。しかし念仏の人は見かけない。 ・これでは、この世で救うの本願あれど、三願転入の道、はるか遠い。 高森先生が言われた「人生の目的でなく、本当は多生の目的です」 とでも思わねば続かない。私の心にぴったりだ。しかし平生業成が親鸞聖人一生のみ教えです。 弥陀の救いは一念往生と願成就文に願意を明らかになされ、「人身受け難し、仏法聞き難し、今生に度すべし」の釈尊の御教誡は無駄ごとになる。 私達はこのまま聞いてゆば、宿善が厚くなり、ある日地震の如く後生の一大事に驚くと言われたが、それまで命があるか。 なんとかなるの信心がぐらぐらと揺らぎ始めた。皆さんの信心はどうですか、大丈夫でしょうか。 ○8月のお盆になり久々に実家へ帰った。 80歳過ぎの母が、もう父の墓参りは今年が最後だろうから連れて行ってくれと気弱なことを言った。早いもので亡くなって10年が過ぎ、車で村の墓場へ行き父の墓前で阿弥陀経をあげて母と父を偲んだ。 家に帰ると母が「こうしてじっくりと話が出来る機会はめったにないから言っておきたいことがあるので聞いてくれ」といつもになく静かに話し始めた。 自分の生まれた時からの話が始まり、これまで断片的に話していたことを、正確に時間的順序で出来事、心情を2時間余り語ってくれた。 家が貧乏子沢山で奉公に行ったこと、満州開拓団に夢を托し、結婚し男の子供2人もいたが、夫は急性肺炎で満州で急死、子供はソ連参戦のどさくさの惨事で死なせ、この世の地獄を味わった。 戦地で助けてくれた今の父と命かながら日本へ帰国して私達、兄弟が生まれ苦労したけどなんとか今日に至った。亡くした子供を思い、その分私達に注いでくれた愛情の数々を思い出すと私はこみ上げる涙を堪え切れなかった。 特に私は小さいとき病弱で、兄弟の中でも親に心配ばかりかけてきた。にもかかわらず、父が亡くなり、遺産分けが思ったより早くなったとき悲しみはしばらくで、これで助かると心で喜んだではないか。 今も私の身の幸一つを思っていてくれる母に日頃何を思っているのか。 親を利用する心しかないくせに、自分の子供の恩知らずの態度に、己忘れて不満一の私ではないか。 ああ私程、恐ろしい者はない、浅ましい子供は無い、親は無い。恩知らずの鬼は私だ。、 悪かったー、俺程悪い者は無い、堪忍してくれー、と大声を挙げて膝に泣き崩れた。恥ずかしいも何も無かった。泣くしかなかった。 母は「分かった、分かった」と背中を撫でてくれた。 私が泣き止むと母は話を続けた。 「お前が高森さんと縁があって仏法聞くようになり、講師にもなって苦労しているのを見て、早く信心決定してくれ、まだかなまだかなとずうーと思ってきた。生活も大変やし子供もいるのにどうしてやってゆくのかとそれも本当に心配だった。講師やめて働いて生活心配ないようになったと聞いて安心したよ。だけど後生のことは大変だ、このまま高森さんの話聞いていって信心決定できると思っているのか」と聞いてきた。 本当にドキリとした。見抜かれていると思った。どうしてそう思うのか聞くと驚くことを言い出した。 ・「満州から帰ってしばらくして、、高森さんが村の寺へ説教に来られ、聞く気なかったけど余り近所の人に勧められ、断ってばかりいては悪いと思って参りにいった。 その時「念仏称えておっても助からん、信心頂かねばあかん」と言われた。この人変わったこと言う人やなと思った。まだ学生服の金ボタンの頃で、誘った人に訳を聞いても要領が悪い。それで夜の説教が終わっていたけど数人で寺へ戻って尋ねたら、奥から出て来られて囲炉裏かこんで夜中3時頃まで聞いた。 それから聞き出した。婆ちゃん(祖母)も聞けるとき聞かなあかんと言ったので聞き回った。そりゃ厳しい話やった。しかし満州で地獄見て来たから、罪悪、無常が本当で怖いけど聞いた。数年後、聞いて安心出来た。 お前みたいな者がと言われるだろうから、ずーと言わずにきたけど、いつ、何時死のうとか私の後生は心配してくれるな。 それより、落慶式に行ってあの広い所(2000畳)と前のテレビの大きいのには驚いたが、話を聞いててこれではなーと思った。 歳とられて声も迫力も無くなったのは仕方ないが、昔の話はもっと腹に応えた。今は次から次からテレビに言葉が出てきて、若い人(アシスタント)に説明させて、黒板のあっちへ行ったり、こっちへ行ったり、どうしてじっくりと座って、話されんのやろ。声小さくてもマイクあるから良く聞こえる。 落ち着いて、じっくりと話して欲しいな。次々と色んな言葉出されても多くて覚えてもおれん。昔と違う。 お前、あんな中で信心決定しようと思ったら余程、真剣に聞かないと聞けんと思うが、どう思って聞いている。何十年も何、聞いて来た。一生なんかすぐ終わるぞ。 お前、高森先生だけに聞いてるがそれでいいのか。一度、離れて静かに自分の心を見つめた方がいいのでないか」 がーんと来た。私の数十年の聴聞姿勢を破壊されてしまった。 この世ばかりか、後生まで心配してくれる親であったのか。 それなのに、余り仏法のこと分かっていないと思い、教えてやらねばと自惚れていた。 父の本棚には昭12年に出版された為蔵館の「本願成就文説教」があった。当時、有名だったのか高森先生が説法で話された内容も多く書かれている。父も私より深く聞いていたのか。 私は如何に愚かな息子か、それと同時に何と有難い両親の元に生まれたのかと思いながら、父の伝言のようなその本を持ち帰った。 ○私はこれまでほとんど高森先生、親鸞会発行の出版物しか読んだことがなかった。皆さんもそんな人、多いと思います。 何しろ高森先生だけが、唯一の善知識だから、他は読む必要は無い、間違っている。読むこと自体高森先生をおろそかにしている謗法罪だという意識しかありませんでした。 禁止を破った清森さんはその為、何日も講師部会合の時、前に出され、全講師部から指摘の嵐を受けた。 「君は学院再研修だな」と冷たく高森布教局長から断を下され支部長解任の処罰を受けてしまった。誰も恐ろしくて他の本は読めなかった、話を聞けなかった。今もそうですから、ここをこっそり見ている講師部員は隠れてでしょう。 ・父の残してくれた、「本願成就文説教」を読んで私の頭は「目から鱗」くらいではありませんでした。 高森先生だけが唯お一人の善知識の思いが崩れ出した。 高森先生以外にも、阿弥陀仏の本願を分かり易く伝えている方があった。 私にはソ連崩壊よりすごい、信じられないことが起こった。 見るなといわれていた、インターネットにも接続し「親鸞会」を検索した。 有るは有るは、紹介や批判の項目が10もあって読み始めた。 中に、「なぜ私は親鸞会をやめたのか」があり、開いて見て驚いた。 「高森顕徹氏の著書のルーツ」を読んで、大沼法竜氏と華光会創始者の伊藤康善氏の著者を盗作していたことが分かった。 高森先生は「糸一筋でも他人の物を盗ってはいけない。私は子供の頃、母に拾った柿を見せて半殺しにされる程酷い目にあった」と講師部の前で盗むことの悪を教えられた。 だから問題なのです。 ここまで読まれた方で、高森先生を信じておられる方も多いと思います。私もその心情はよく分かるのです。しかし事実を誤魔化さず見つめてゆく勇気が今必要です。検索すれば分かります。 私は大沼氏の福岡県の寺に電話で本を早速注文しました。30巻中今は16巻しか無いと言われ全部下さいと言いました。 華光会へも電話で注文し「仏敵」「安心調べ」「われらの求道時代」「念仏のお叫び」等を求めました。 読めば読むほど、大変なことが分かって来たのです。 #
by watashinobyakudo
| 2008-05-25 21:29
皆さんの中に、私の発言を憎々しく読んでおられる方もあると思います。 長い間、高森先生、親鸞会にご恩を受けながら、しかも信を獲たように言いながら、信じられない言動だ、偉そうに言うなと。 歎異鈔6章にも「自然の理にあいかなわば、仏恩をも知り、また師の恩をも知るべきなり」とあるのを、よもや知らぬはずはなかろうにと。 心情は痛い程よく分かります。 私も何度やめておこうかと思いました。 名前を隠していても、話が進めば、具体的になれば、いずれ分かり、煩わしいことも予想され、悩みました。 しかし、30年聞いても分からんと泣かれたTさんは次の年の1月に亡くなられました。後で知って自宅へ伺いました。 どんな思いで亡くなられたのだろうかと思うと、真実伝えることの出来なかった自分を謝らずにおれませんでした。 また獲信後、どうしてもお伝えせねば、と尋ねた一人暮らしのMさん(80歳過ぎの女性会員)は、すでに5ケ月前に急に亡くなっておられました。遅かったーと泣きました。 20年以上求められ、本部、地元御法話と週に3回必ずお参りし、それでも「後生が心配だ、でも分からん、難しい、私には無理ですかね」と何時も言っておられたのが耳を離れません。 ああ折角、仏縁に恵まれたのに、南无阿弥陀仏のみ心を知らずに去っていかれるのを、阿弥陀仏は身を切る思いで悲しんでおられる。 十劫の昔から、どうしたら聞いてくれるか、こうもしたら分かってくれるかと、あの手、この手のご方便なされて、待って、待って下されているのに、その御心が伝わらずにーーー 泣いて死に行く人以上に泣いておられる。 黙っておれない、これではご縁ある方も今のままでは同じことになる。 私のご恩は、如来大悲のご恩が、何より先です。 すること、言うことが高森先生の批判になろうとも、私はそれで阿弥陀仏の御心を知って頂く方が現れるなら、甘んじて受けて行こうと思います。 空ごと、真実ないこの世に、どんなことがあっても、この弥陀だけは捨てないぞ、あてにせよ、まかせよと抱き摂って下さった、未来永遠のあてたよりになって下さった嬉しさ、このご恩は、人の非難位で曲げられません。 分からぬ人には、分からないでしょう。 高森先生なら、そういうものだと、分かられるでしょう。 だから本気で書けるのです。 質疑応答88も読ませて頂きました。有難く思います。 それでは、大沼氏、伊藤氏の著書を読んで、何が分かったのか、お話致します。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー (大沼法竜氏) 1895年生(明治28年)北九州の在家に生まれる。お母さんが熱心な真宗門徒で大きな影響を受ける。 大正10年3月仏教大学本科卒業。 昭和51年2月死亡(80歳) 宗教法人「親鸞会館」を設立、代表役員として活動。 著書に「おやごころ」「本派本願寺の危機どちらが異安心か」「法界」「教訓」「随想録」「明暗」他多し ・大沼氏は獲信した、と自ら告白し、本願寺は法の有難さばかりを説いて門徒を喜ばせているが、間違っている、と本願寺を相手に論争した本願寺派僧侶です。その為に破門されました。 大沼氏は、三願転入してこそ救われる、またその法を聞く私とはどんなものか。逆謗の屍であり、その本願を疑う怖ろしい疑情があるではないか。 なぜ、弥陀に救い摂られる信前信後、一念の体験を本願寺は明らかに説かないのか。 皆、疑いも知らず、素直なものと自惚れている、無帰命安心の人々ばかりだ、と全国を説いて回り、著書を多く出版し、当時有名な人でした。 信者は全国に居ました。高齢な人に時々、会いました。 「本派本願寺の危機どちらが異安心か」は痛烈に批判して出した本です。「どちらがウソか」の題名によく似ています。 ○盗作の事実 ・福岡県の敬行寺に電話して、絶版以外の残ってい16冊全部を取り寄せて、読み始めた。 付箋紙を用意して、高森先生より聞いた話、著書で読んだところがあれば貼っていくと、すぐさま100枚の付箋紙がなくなり、また用意した。 読んで見た方なら、分かるでしょう。それほど多く驚いた。 どんなところか「なぜ私は親鸞会をやめたのか」の「高森顕徹氏の著書のルーツ」 にも出ているので、参考に見て下さい。 ここには、多くて書きようがありません。 「会報」「こんなことが知りたい」「光に向って」「アニメの台詞」「お葉書のお歌」「教学問題」等など 盗作しないものはない、と言っていいほど、よくこうまで熱心に盗作作業をされたものです。 高森先生の手元には、大沼氏の全集全巻が揃っていて、付箋紙がびっしりと貼られ、赤線で真っ赤だ思います。 ・一例に皆さん、まさかと思われるでしょうが、黒板に必ず書かれる、縦と横線の求道線も、大沼氏のオリジナルで、写真が載っています。 ・「光に向いて進む者は栄え、闇に向いて走る者は亡ぶ」 「法界」382Pに書いてあります。 ・「美人も笑顔忘れりゃ五割り引き」のお歌も、「明暗2800首」の中の一首で、美人をべっぴんに変えただけです。そのままの歌も多いです。2800首もあれば、いくらでも発表出来ます。打ち出のコズチがあるのです。 皆さんが講師、大講師の教学試験の時、苦労して覚えた「会報」や、高森先生のご教導だと感激して読んだ著書、「お身体、大変な中を私達の為に作って下さったお歌ですよ、もっとアニメを出しましょう」と言われ、申し訳ないと頭下げて頂いたお葉書も、ネタは大沼氏からの盗作部分が多くあったのです。 ○なぜ盗作するのか ・読んで感動し、勝れた文章であり、自分にはとても書けない。素晴らしい先生だ、信心だ、人徳だと、認めているからです。 ・しかし、誰の文章か発表しなければ、皆さんは自分の文章と思われ、尊敬される。 非常識とは知りながら、名誉欲に負けるのです。 ・盗作した以外の文章を読まれると、都合が悪い個所があるので、盗作の事実を隠す。読ませたくない。 ・著者、著書を紹介すると読まれて、高森先生以外にも尊い先生がおられることが分かり、噂は広がり、自分だけが唯一人の善知識と思われているウソがばれてしまう。 ショックを受けた会員さんの中で、そちらへ行く人(退会者)が増えるからではないでしょうか。 ○なぜ盗作が悪いのか。 前回お話しましたが、講師部に人のものを盗ってはいけない、悪だと教えられたからです。人にそう言っておりながら自分が盗めば、誰もその人を信用しなくなります。 説かれる法にも傷がつくのです。 人間は信用が大事、徳が大事、信用の無い人の話は誰も聞きたいと思わないだろう、と自ら言われているからです。 「招待されて行った家の控室に通されたら、絶対にそこの物を触るな、動かすな、絶対だ。後でその家の人がおかしいな、触ったなと分かると信用を落とすのだ」と具体的に厳しく、信用をされる人間になれ。10年20年とかかるが、崩れるのはすぐだ、気を抜かず努力せよ、と講師部は教えられた。忘れた人はいないでしょう。 仏教のいい話だから、誰のだろうと盗作でなく紹介されたのだ、悪いことでは無い、高森先生のお陰で私はよく分かってよかったと思う人もあると思います。 しかし、親鸞聖人はお聖教を書かれる時、必ず根拠を出しておられます。どなたの書かれた何というお聖教かです。 教行信証を少しでも拝読すれば分かることですよ。 尊いお言葉は、その人の命がけの求道より体得された叫びであり、命なのです。 どれほど感謝しても足りないご恩を感じられたからです。 仏法者として、当然ではありませんか。 黙って自分の文章の如く書けますか。。 学問、研究、文学、絵画、音楽など、世間でも盗作者は大変な非難を浴びて社会的信用を無くするのは、皆さんご存知ですね。 そんな常識すら、分かられないのでしょうか。 恩を知れ、といつも厳しく教えておられるのに、悲しくなりました。 ○ごまかし体質 ・退部する少し前に、講師部会合で、お葉書の言葉(歌)を覚えているか、書きテストがあった。 40首位の空白部分を書くのだが、覚えていない者を高森布教局長が「講師部員がお歌を覚えていなくて、それでも講師部か。ご苦労して作って下さったのに御心がそんなことでお伝え出来るのか」と立たされて、点数の悪い者から順に厳しい指摘が始まった。 ところがしばらく日がたち、「パソコンに残っているお歌を全部、削除しろ、ひとつでも残っていれば厳罰だ」と指示が来た。なぜか、など誰も質問しない。 高森先生の指示に決まっており、理由を聞く事自体、問題にされる。 講師部聖則「講師部は会長先生のご指示に無条件に従い、信心獲得を本と致します」に反する言動だからです。 盗作がどこかから、ばれて証拠隠滅だったことは想像できる。 自分の問題はことごとく、このように隠されてゆく体質である。 ○読んで分かった問題点 1 私は大沼氏の著書を読んで、すごい学問と文才の先生だなと思いました。 湧き出る泉の如く、言葉の洪水というという感じで圧倒されます。 親鸞聖人のお言葉以外にも、「教訓」(光に向って、に多く盗作)「明暗」(お歌2800首)と才能は広く、高森先生はことごとく大沼氏の真似をされたことが分かりました。 著作権などの法律的問題はさて置き、ここまで真似る執念に感心しました。高森先生は真似上手と分かりました。 2 私は高森先生より聞かせて頂き、40年を過ぎました。 その間、高森先生の説かれることが変化していることに気付きました。 講師部暦の長い人は分かりますか。会員暦の長い方は分かりますか。ゆっくりと時間をかけて変化しているとわからないものです。 大沼氏と高森先生の著書とを比べて読み込んいく内に、これは大変だと思うことに気付きました。 高森先生の「会報」「顕正」その他の著書にも三願転入という言葉で強調して、書かれたところはありません。 三重廃立で教えらています。ここばかり聴聞して来ました。 #
by watashinobyakudo
| 2008-05-25 21:27
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