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○三重廃立と三願転入 ・高森先生「会報第5集」44P 「覚如上人は聖人の意を「改邪鈔」に「真宗の門に於ては幾度も廃立を先とせり」と申され、蓮如上人は「もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて後生助け給えと弥陀たのめ」と御教示になさったのである。---その廃立すべきものに三種あるから、三重廃立といい、これをしなければ絶対に助かることがないから、親鸞聖人の「教行信証」には厳しく、それが説かれている」 ・私の30年以上前の高森先生の教学講義、講義録(真宗学4号12問)に以下のように記している。 (問)善知識の使命を示せ。またその聖教上の根拠も示せ。 (答)善知識の能というは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと人を勧むべきばかりなり(御文章2帖目11通) 高森先生「三重廃立しなかったら、一心一向に弥陀に帰命することは出来ない。聖人の教行信証も一口で言えば三重廃立になる。善知識の任務は、三重廃立以外にない。三重廃立さえ徹底してゆくと必ず信を獲る」と書いてある。 ・しかし、大沼氏の著書はいたるところに「三願転入」してこそ救われると強調して書かれている。 大沼氏「広大難思の大慶喜」241P この三願転入をせず、第十八願だけでよいと言う人は、二尊や聖人より偉い人なのです。 阿弥陀さまはいらない願を建てられたか、釈尊は不要な説法をされたか、聖人自らの体験が三願転入であるが、他の道を通って聖人と同じ報土に往生ができるでしょうか。 ・しかし、大沼氏の説くところは高森先生と絶対合わぬところがあったのです。(化土往生です) 大沼氏「法界」152P-154P 「計らいのない人は一人もいない筈だ。計らい尽きて親に計らわれていた事に驚いて捨自帰他した一念の徹底する迄は、皆信前をうろついているのだ。その間に死ねば漏れなく化土往生だ。しかし化土に往生する人は疑心の善人であって吾々は悪人だから化土に往生の出来る筈がないと言う人が有るが、化土へ行かれない位の者が至極の報土往生の出来る筈がない。ーー平生業成、現生不退、明信仏智の体験のない人は如来広大の恩を迷失しているのだ。雑行、雑修、自力、疑心の桁を離れ切らないのだ。離れ切らなければ化土の結果は免れないのだ。」 「報土の信者おおからず化土の行者かずおほし 自力の菩提かなはねば久遠劫より流転せり」(正像末和讃) 大沼氏「方便より真実へ浄土真宗」411P (みな化土往生ですよ) 「自力の執着の除かれない間に死んだ人が化土往生し、絶対他力になった人が報土往生をさせていただくのですから、化土往生は階段ですから、易いのです。」 ・この説に対して高森先生の反論はすざましい。 高森先生「会報第5集」59-61P 「一体、どこに十九願相応の修行している道俗が真宗に見当たるのか。どこに二十願相応の念仏行をやっているものがいようか。真宗の道俗はさも易く「あれはまだ十九願だ」「あれは二十願の人だ」と言っているが、願の上からだけなら言えるかも知れぬが、それに相当した行がともなわない人達ばかりだから、本当の十九願の行者、二十願の行者は真宗の道俗には、いないといってよいのだ」 「ここで特に注意しておかねばならぬことは、真宗の道俗の中に、未だ大信海に入らずとも求めている者が死ねば、みんな間違いなく化土往生出来ると主張し、同行の求道心をさまたげている人がいるということである。これは許すことの出来ない正法の怨敵である。三機のところでも述べたように十九願の邪定聚の機ならば化土でも行けるであろうが、真宗の道俗の中に、そのような者は見当たらないから化土往生どころか必堕無間こそ間違いのない後生である。若し、信前の者も、求めてさえいれば化土往生が出来、やがて報土往生、弥陀同体に成仏出来るのなら、後生の一大事は立たない。 後生の一大事、生死の一大事の立たないところに仏法、また成立しないのである。若し、信前の者が、みんな化土往生出来るのなら、親鸞聖人は、なぜ「たとえ、大千世界に、みてらん火をもすぎゆきて仏の御名を聞け」とおしゃったか。蓮如上人も「御文章」の各処に「この信、決定されずんば極楽には往生せずして化土へ参るべきなり」といわれずに「無間地獄に堕在すべし」と教えられている。」 (徹底して化土往生は出来ないと教えておられたのである。覚えておいて下さい。これは大沼氏への批判ではないでしょうか。しかし、大沼氏はこう反論した) ・大沼氏「八万の法蔵は聞の一字に摂まる」131P 「化土往生ができる」なんて言えば「われわれのような者は自力の修行が出来ないから、化土に行かれるものか。化土へ行くのは、自力の修行をした人が行くのだ」と言う人がいるだろうが、あなたは自力が出来るか、出来ぬかやってみたことがありますか。ーーーまだあなたは、19願の入り口ですよ」 (やってもいない者がいうな。入り口とは講師部にも言われた言葉の元がここにあったようです) ・大沼氏「昭和の歎異鈔」322P 「たとえば買い物の荷物を子供が持つと言ったとき、持てないこと承知の上で親が荷物の下に手をすけ、子供は真っ赤な顔をしてーーー」 (自力一杯、善をやった者が出来ないと知らされ、次の20願へ行くのだ。何度も聞いた、この譬え話も皆大沼氏のここから出ています。とにかく盗作が多い) ・大沼氏の本を読んでいて思い出したことがある。 先輩の親鸞会元講師に岐阜県の寺の出身者で龍谷大学卒業の佐藤講師がおられた。(退部後、交通事故で亡くなられたと聞いた) その佐藤講師から忘れられない話を30数年前に聞いた。 「僕は龍大へ行って親鸞聖人の教えを学んだけれど、今の本願寺では無帰命安心で駄目だと思ったよ。 それで、本願寺が駄目なら、その本願寺に破門された人なら本当の方かもしれないと思って、当時本願寺と喧嘩していた大沼さんのところへ聞きに行った。 大変な学者でもあり、話も真剣だったから聞いた。 しかし、三願転入の話になり、真剣に求めている人は、信前の19願、20願の人だから信心決定していなくても皆、化土往生だといわれて驚いた。 これでは、極楽は無理でも化土往生なら有難いと座ってしまい、求めようとする気にならない人も多くなる。 聞いている人には、獲信してなくても後生の一大事がないことになる。これではあかんと思った。 もうお一人、本願寺を非難している人が高森先生だった。 本(会報)にも化土往生を言うものは正法の怨敵とあったので高森先生より聞かせて頂くことにした」 ここまでは、随行文を聞いた方なら覚えておられるでしょう。 そして話を続けて 「これは内緒だよ、誰にも言わんといてほしい。 まさかと思うけど、高森先生の生きておられる時には、ありえんと思うけど、三願転入を言い出す者が現れて化土往生出来ると言う者が出て来ないとも限らん。 お聖教上は、化土往生は説かれているからね。 実は高森先生の話や、書かれたものに大沼さんの本からのものが多くて気になるんや。気になる。ここだけの話やよ」 えーと驚いた。具体的にここが盗作とは聞かなかったが、当時はカチン、カチンに高森先生を信じていたから、絶対そんな心配はない、三重廃立しか話されていないからと思っていた。 ○三願転入の説法始まる ・しかし平成5年の「親鸞会結成35周年大会」で遂に、三願転入の説法が開始されたのである。驚いた人はどれだけあったでしょうか。 「親鸞聖人の教行信証は三願転入が説かれている。 我々に19願、20願いらぬ、18願だけでいいと公然という学者もいるが、皆三願転入を根基として書かれている。御和讃もそうだ。十方衆生が選択の願海(18願)に救われるのは、19、20願通ってであり、通らねばアリ一匹救われぬ」 (平成18年4月30日教学講義にもそう言われた) ・佐藤講師の心配が的中してゆくのだろうか。 ○「会報」の廃刊はなぜ 「会報」は平成9年「私の道」として出版されると顕正新聞に発表されましたが、未だ出版されません。 また、「現代仏教界の最高峰に位置する著書」と言われた「会報」は廃刊になってしまいました。 大沼氏、華光会の伊藤氏の著書の盗作がインターネットに「どちらが先か」と問題になり、批判を浴びて廃刊になったのが真相だと言われていますが、例の如く高森先生は理由説明責任を放棄されたままです。 もちろん講師部は誰も聞けません、知りません。 しかし親鸞聖人の重要な教えが書かれた「会報」を捨てる人はないでしょう。私も今も持っています。 ・教学問題真宗学4号問49 今は教学聖典ですが、以前は教学問題と言われました。 (問)真宗は0点か100点かの二通りしかないことを教えられた和讃を一首かけ (答)専修の人をほむるには千無一失とおしえたり 雑修の人をきらうには万不一生とのべたもう (高僧和讃) この問題は教学聖典から無くなっています。 削ってもいい内容でしょうか。 0点か100点それ以外の人は無いという話でしたがこの問題は何か都合が悪くなったのでしょうか。 化土へ行く人は0点とは言えないからでないでしょうか。 ・まだ「信前の会員でも、私の法話を聞き、参詣、財施、顕正の諸善、活動に頑張っている人は皆、化土往生です」と正式に言われません。 しかし25年前、高速道路を逆走行してトラックと正面衝突し即死した、細川、松田両講師の死に対して高森先生は「私は二人の後生は心配していない。臨終に観音菩薩の説法にあったと思う」と言われた。 細川講師は過労のあまり、福井県のパーキングで仮眠し、寝ぼけて、来た道を戻って逆走行したのだ。 松田講師は助手席で寝ていて即死した。こんな状態で観音菩薩の説法にあえるのか、当時おかしいと思ったが、親しい友だから、そうであって欲しいという感情が入り、何となく納得してしまった。本当ですか、と高森先生に聞く講師はいなかった。 先生がそう言われるのだから、と思ったもです。 善知識高森先生に絶対間違いはないのですから。 私らに分かるはずがないのですから、と思ってしまった。 ・昨年の香港御法話でも、真剣に求めている人は観音菩薩の説法にあえると言われたとか。感動した会員さんが、手紙に書いて来た。 根拠がどこだろうか、そんなことどうでもいい、高森先生が、そう言われるのだから、それでいい。 ・20年や30年で獲られる信心なら「億劫にも獲難し」と言われるはずがない(これが獲信か、7P) ・雑行、雑修、自力の心を知るには30年40年かかるだろう。(教学講義) ・信心獲得は100年や200年求めて獲られるような、ちっぽけなものでなく、多生永劫、求めてようやく獲られるもの、ということが明らかです。ーーー 我々も魂のリハビリをしているようなもので、信心獲得までには肉体のリハビリどころでない、多生永劫という長いリハビリの時間を要するのだ、と教えて頂きました。(昨年来た友人の手紙・会員暦30年以上) ○親鸞会はどこへ行くのか 平生業成・現生不退・一念往生のみ教えは会員さんの心に本当にあるのでしょうか。 看板だけか、人に入会をすすめる文句だけになったのでしょうか。 ・阿弥陀仏はなぜ一念で救うという本願を建立されたのか。 「如来の大悲、短命の根機を本としたまえり、若し多念をもって本願とせば、命一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもって渕源とす」(口伝鈔) 「聞思して遅慮することなかれ」(親鸞聖人) 「明日も知らぬ命にて候に、何事を申すも命終わり候わば徒事にてあるべく候。命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは、定めて後悔のみにて候わんずるぞ。御心得あるべく候」(蓮如上人) 阿弥陀仏の御心を伝えられた真の知識のお言葉を、今こそ深く思うときではないでしょうか。 ・宗教法人「親鸞会館」も館だけの違いですね。 ・高森先生は「私は親鸞学徒です」と言われますがこれでは「大沼学徒」と言われても仕方がないのではないでしょうか。 ・高森先生の後、親鸞会はどうなるのか、誰の話を聴聞すればいいのか、高森布教局長では無理だろう、という話をよく聞きました。 ○これからの親鸞会を考えるだけでも大変なことでしたが、華光会の伊藤氏の著書を読んで、それ以上の衝撃が走りました。
by watashinobyakudo
| 2008-05-25 21:25
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